IPv4が本格的な資産となったとき、なぜ現行のレジストリモデルは成り立たなくなるのか
事務処理を担い、責任を囲い込むための器にすぎない組織が、数兆規模の価値を持つ資産クラスを統治できるのか?

小さな管理記録が、甚大な経済的影響を及ぼすことがある。Lu Hengは、危険にさらされる価値が、その記録を支配する組織の引き受ける責任をはるかに上回る制度に疑問を投げかける。
現行のレジストリモデルが存在できたのは、IPアドレスがまだ本格的な資産として扱われていない世界で生まれたからにすぎない。その初期段階では、レジストリ層は、中立的な管理制度だと名乗ることに一定の説得力があった。技術上の調整機構であり、帳簿管理の機能であり、ネットワークの便宜のために維持される共有の台帳だという説明である。そうした世界では、レジストリの登録記録そのものに結びつく市場価値が小さかったため、権力と賠償責任の不釣り合いは表面化せずに済んだ。だが、その世界はもう存在しない。今やIPv4は希少で、移転可能で、価格がつき、資金調達に利用でき、訴訟の対象となり、運用に不可欠である。現実の経済に巨大な影響を及ぼす資産の一類型となったのだ。ところが、この制度の法的形態は、管理対象の経済的実態に合わせて進化していない。これが中心的な矛盾である。レジストリ層は、価値の低い事務記録を管理しているかのように振る舞い続けているが、実際には、莫大な市場価値を持つインフラ資産の上に位置している。この矛盾は一時的なものではない。構造的に致命的なものだ。
まともな商業制度であれば、支配の力と賠償責任は、おおむね釣り合っていなければならない。ある組織の権限がごく小さいなら、責任を限定することにも合理性はある。だが、ルーティングの正当性、移転の権利、事業継続、そして運用事業者の存続まで左右しうる対象に対し、決定的な力を行使する組織なら、象徴的な賠償責任は不合理になる。現行制度が逃れられないのは、この点だ。資本の乏しい非営利組織の予算は数百万規模である一方、その記録に依存する経済的価値は数十億規模になりうる。契約では、賠償責任を名ばかりの金額――100ドル、数か月分の手数料、あるいは同じように象徴的な上限――まで引き下げるかもしれない。だが、レジストリの機能不全、恣意的な行動、劣悪なガバナンス、あるいはシステム全体の誤りが引き起こす実際の波及被害は、壊滅的になりうる。これは通常のリスク配分ではない。結果に伴う負担を外部に押しつけながら、権力を集中させようとする試みだ。数学的にいえば、不安定なシステムである。法的にいえば、矛盾である。文明の観点からいえば、実際以上に持続可能であるかのように装うガバナンスモデルである。
西洋の契約法は、その本来の姿において、魔法ではない。文言が書かれ、誰かが「同意する」をクリックしたというだけで、どんな不合理にもお墨付きを与える機械ではない。賠償責任の制限条項が通常の商取引で機能するのは、その商取引が一定の背景条件を前提としているからだ。ある程度は交渉が成り立つこと。ある程度は代替が可能であること。そして、支払う料金、受けるサービス、引き受けるリスクの間に、納得できる関係があること。ここでは、そのどの前提も実質的には成り立っていない。レジストリは普通のサービス供給者ではない。不可欠なインフラ層へのアクセスを握る、独占的な門番に近い。利用者は対等な立場で交渉していない。契約条件は一方的に提示される。退出も、しばしば現実的ではない。経済的な利害は莫大だ。それでも、救済の仕組みは意図的に取るに足らないものにとどめられている。成熟した法秩序であれば、条項が形式上存在するというだけでは、その実質的な不合理を正当化できなくなる地点がある。法制度は非対称性を許容することはある。だが、その非対称性が全面的なものになれば、理論的な整合性を保てなくなる。
だからこそ、IPv4は「財産ではない」と繰り返し主張しても、問題は決して解決しない。その言葉は答えではない。防衛のための仕掛けである。市場は、形而上学的なお墨付きを待たない。あるものが固有で、希少で、移転可能で、価値を法的に実現でき、予測可能な経済的収益を生み出せるなら、管理組織がその言葉を使うことに抵抗を感じるかどうかにかかわらず、それは資産の世界に入っている。市場はすでに答えを出している。貸借対照表も答えを出している。法理が遅れていても、裁判所は実際の判断を通じて、ますますその答えを示している。運用事業者は価格を通じて答えを示している。買い手、売り手、資金提供者、訴訟当事者、取引相手は皆、これらの資源が経済的に重要であることを前提に行動する。実際に重要だからだ。IPv4の資産としての性質を認めることを拒んでも、それが資産ではないことの証明にはならない。根底の経済的事実が変わった後も、古いガバナンスの神話を温存しようとする試みにすぎない。
ここで問題は、単なる契約の問題から、哲学の問題へと変わる。近代西洋のガバナンスは、少なくとも理論上、権力、責任、正統性の深い一致に立脚している。法の支配とは、ただルールが存在することではない。権力の行使は、合理性、審査、責任、救済によって制約されなければならないという理念だ。資本主義も、単なる富の蓄積ではない。自らの決定の結果を引き受けるがゆえに信頼できる制度を通じて、リスク、報酬、支配、そして結果に伴う負担を配分する仕組みである。レジストリモデルは、この二つの論理を同時に破る。高価値の経済秩序に対する権限を主張しながら、その権限の結果に見合う賠償責任を拒む。信頼される法的基盤に通常与えられる服従を求めながら、その基盤が負わなければならない負担を引き受けない。だからこそ、それは法よりも神学に似てくる。その権威は、相互に責任を問える関係よりも、共通の信念に依存する。データベースこそ至高だと信じよ。この組織は特別だと信じよ。ルールを支える経済構造がもはや理にかなわなくなっていても、ルールには拘束力があると信じよ。だが、21世紀において、相応の賠償責任を伴わない信念は長続きしない。それは、もはや長くは持たない儀式的な権威だ。
独占という側面は、この矛盾をさらに悪化させる。通常の市場では、厳しい契約条件も、競争によって正当化できる場合がある。一つの供給者が不合理なら、価格、サービス、リスクのバランスがよりよい別の供給者が現れうるからだ。だが、組織が構造的に独占、またはそれに近い地位を占めている場合、契約の自由を持ち出す通常の擁護は成り立たなくなる。実質的に拒否する自由を伴わない契約の自由は、本当の自由ではない。私法の衣をまとった行政的な強制だ。インフラが不可欠であればあるほど、これは単なる合意に基づくサービス関係だという虚構は、説得力を失う。独占に近い支配と象徴的な賠償責任が組み合わされれば、その仕組みは法的に疑わしく、経済的に不合理で、政治的に秩序をむしばむものになる。集中した責任を伴わない集中した権力を、社会に受け入れさせようとするからだ。真剣に法に立脚する文明が、この組み合わせを永続的に安定させることはできない。
現行制度が過去には存続できても、未来にわたって無期限には存続できない理由も、ここにある。IPアドレスが豊富にあったか、商業的に重要でなかった頃は、利害が小さかったため、構造全体が社会的に許容されえた。レジストリがずさんで、資本が乏しく、思想的に曖昧で、法的責任から隔離されていても、世界は回り続けた。だが、希少性が対象そのものを変えた。希少性に移転可能性と市場価格が加わったとき、レジストリは無害な事務管理の層ではなくなり、価値ある資産を握る隘路となった。古い制度の外殻は残ったが、その中身は変わった。その瞬間、制度は不安定になった。すぐに破綻しなかったのは、制度というものが、その論理が失効した後も長く生き残ることが多いからだ。だが、その時点から、破壊は原理上避けられるかどうかの問題ではなく、時間の問題になった。
「破壊される運命にある」とは、同じ仕組みが、どこでも同じように、同じ日に崩壊するという意味ではない。この矛盾を永久に抑え込むことはできない、という意味だ。圧力は、訴訟、政治的対立、制度の分裂、民間による秩序形成、並行する信頼の仕組み、分散化、あるいは旧来のモデルを迂回する商業的な仕組みとして表れるかもしれない。だが、行き着く先は同じである。低価値の調整のために設計されたガバナンスの構造が、高価値に見合う責任を否認しながら、高価値の資産をいつまでも統治し続けることはできない。レジストリ層は、責任を問える仕組みと資本基盤を根本的に強化し、法的責任にも厳格に向き合うものへ進化するか、さもなければ、現代の経済的実態により整合する仕組みによって迂回され、異議を突きつけられ、破壊され、あるいは置き換えられることになる。
最も深いところでは、これはIPv4だけの問題ではない。普遍的な原則の問題だ。記録制度が、希少な経済的実体を実効的に支配するようになったとき、それはもはや「単なる記録制度」ではなくなる。資産そのものの一部になる。そしてそうなった瞬間、象徴的な賠償責任は、もはや中立ではない。所有に伴う負担なしに所有者の権限を求め、法に伴う費用なしに法の正統性を求め、主権者として責任を問われることなしに主権者の力を求める、という組織の宣言になる。その均衡は成り立たない。それが存在できたのは、管理対象に意味のある価値がない世界だけだ。その世界は終わった。市場が終わらせた。希少性が終わらせた。資本主義が終わらせた。そしてそうなった以上、旧来のレジストリモデルの破壊は、政治的な好みの問題ではなくなり、構造的な必然となった。