RIRに統治の権限がない理由――「コミュニティの主権」が仕組みを壊す理由

権限と協力はどう違い、レジストリが持つのはどちらなのか?

オフィスと住宅を結ぶ3台のサーバーが相互接続され、その脇のサイドテーブルに開いた登録簿が置かれている概念図。

登録簿を管理しているからといって、ネットワークが自分のものになるわけではない。Lu Hengは、調整を担うことと、支配する権利を主張することを区別する。

統治の権限は、協力から生まれるものではない。相手の同意にかかわらず、服従を強制できることから生まれる。この区別は重要だ。両者を混同することで、調整の仕組みは正当性を欠いた権力構造へと崩れていくからである。

国家に統治の権限があるのは、法律、裁判所、実力行使によって規則を強制できるからだ。拒否すれば、避けられない結果が待っている。協力を基礎とする仕組みは違う。参加者が協力を選ぶからこそ機能する。参加が任意で、離脱も可能である以上、そこに統治の権限は存在しない。残るのは利便性に基づく影響力であり、権力ではない。

地域インターネットレジストリ(RIR)は、まさに後者に当たる。RIRは、番号資源の分配で重複や競合が起きないようにする技術的な調整機関として設立された。政府、規制当局、主権主体として設立されたのではない。どの国家もRIRに主権的な権限を委譲していない。RIRに管轄権を与える条約もない。何が合法で何が違法かを決める権限をRIRに与える法律もない。

RIRが存在できるのは、ネットワークが自発的に協力しているからだ。ネットワークが参加するのは調整が役に立つからであり、従う義務があるからではない。この一つの事実だけで、統治の権限が成立する余地はなくなる。離脱できること、組織を再編できること、資産を移転できること、あるいはその仕組みを迂回できることは、参加が任意である証拠だ。統治の権限は抵抗されても存続する。調整はそうではない。

したがって、RIRの「ポリシー」は法律ではない。自ら参加を望む者同士の内部的な合意である。RIRはあなたに罰金を科すことも、投獄することも、無関係な財産を差し押さえることも、自らの管理システムの外で履行を強制することもできない。取り得る最も強い措置は、調整サービスの提供を続けることを拒むことだ。それは統治の権限の行使ではなく、協力の打ち切りである。

影響力を統治の権限と取り違えてはならない。RIRに影響力があるのは、調整が摩擦を減らすからだ。ネットワークが従うのは、そうするほうが容易で、安く済み、先の見通しも立ちやすいことが多いからである。だが、その影響力が存在するのは、協力が利益をもたらす間だけだ。従うことが有害になったり、恣意的な要求への服従になったりした瞬間に、その影響力は消え失せる。

重大な誤りは、登録と所有を混同するところに生じる。RIRは番号資源を登録するのであって、所有するのではない。登録とは記録の管理だ。支配力と経済的価値は、実際の経路制御、ネットワーク運用、利用から生まれる。登録された資産に対する統治の権限をレジストリが主張するなら、それは記録と主権を混同している。

自ら参加を選んだ少数の技術関係者が「コミュニティ」を名乗り、内部の合意を主権的な権力として扱い始めると、事態は破壊的になる。メーリングリストや会合に集まる数十人は、世界のインターネットも、資源保有者全体も、国家も代表していない。民主的な負託も、全体を代表する立場も、説明責任もない。

任意の参加から主権的な権力は生まれない。ある集団が投票によって、統治されることに一度も同意していない他者への権限を自分たちに与えることはできない。出席者の合意によって成立するのは、その場にいる者同士の取り決めだけだ。それ以上のものではない。その結果が不参加者をも拘束すると考えるのは、そもそも性質の異なるものを取り違えている。調整を統治であるかのように扱っているのだ。

仕組みが壊れるのはここからだ。少数の内部者が全員を代弁していると思い込むと、権限は自称のものになる。中立的な調整は、規則を定める行為へと変わる。技術的な管理は、政治的な支配へと変わる。判断がもはや客観的でも予測可能でもなく、裁量とイデオロギーに左右されていると参加者が気づいたとき、信頼は崩れる。

排除はその崩壊を加速させる。時間に余裕がある者、会合の場に近い者、使用言語を使いこなせる者、組織側と立場を同じくする者がポリシー策定を支配し、それ以外の者は事実上締め出される。仕組みはインターネット全体に奉仕するのをやめ、狭い内部者層に奉仕するようになる。これは調整ではなく、支配だ。

最も危険なのは、離脱そのものが不当であるかのように、任意のポリシーを強制し始める瞬間である。その時点で、この仕組みは法律も、抑制の仕組みも、責任もないまま政府をまねることになる。権力はあるが、説明責任はない。国家の権限にさえ課されている制約を欠くのだから、これは正式な統治権力よりも悪い。

技術的な仕組みが存続できるのは、中立性があるからだ。インターネットの調整が機能するのは、地味で、予測可能で、価値判断を持ち込まないからである。道徳的、政治的、あるいはイデオロギー上の判断が持ち込まれ、ポリシーが主権に基づく法律のように扱われれば、参加者はその仕組みを迂回する。その先にあるのは分断だ。

正当性は自称できるものではない。統治の権限は、統治される者から与えられなければならない。長年従ってきたという事実から、さかのぼって主権が生まれるわけではない。繰り返したからといって、利便性が負託に変わることもない。権限は、設立時に委譲によって成立していなければならず、後になって習慣から生まれるものではない。

RIRは、そもそも統治するための組織ではなかった。調整するための組織だった。調整機関が統治の権限を主張すれば、協力を可能にしていた条件そのものを壊してしまう。暗黙の社会契約は単純だった。「私たちは調整する。協力するかどうかはあなたが選ぶ」。それを「私たちが決める。あなたは従わなければならない」に変えれば、仕組みは壊れる。

結論は明快だ。統治の権限には、強制力、負託、そして同意がなくても履行を強制できる力が必要である。RIRは全面的に任意の協力に依存し、離脱を認め、主権的な権限の委譲を受けておらず、独立した執行力も持たない。小さな任意参加の集団が、自らを主権を持つコミュニティとして扱えば、その仕組みは不安定になり、正当性を失う。

それはインターネットを強くしない。インターネットを機能させてきた調整の仕組みを破壊する。