中立な帳簿係はいかにして脆い権力になったのか
台帳が資本に変わったとき、単なる帳簿係はどうして脆い権力へと変わったのか?

帳簿係の机が、主権国家ほどの大きな影を落とすことがある。Lu Hengは、民間のレジストリが、通常の説明責任を超えた権威として扱われるようになった経緯を問う。
『国家はなぜ衰退するのか』で、アセモグルとロビンソンは、包括的な制度と収奪的な制度を区別している。包括的なシステムは権力を分散させ、裁量を制限する。収奪的なシステムは、狭いエリート層に権限を集中させ、説明責任を制限することで支配を維持する。この枠組みは国家だけでなく、意思決定権限の集中を基礎とするあらゆるガバナンス構造に当てはまる。
インターネット番号資源のガバナンスは、技術的な帳簿管理として始まった。レジストリは割り振りを調整し、ルーティングの安定を維持した。初期にはIPv4は潤沢で、経済的には取るに足らないものだった。帳簿は事務のためのもので、資本ではなかった。その条件の下では、小さな民間の調整組織が、専門家としての規範と善意によって機能することにも、十分なもっともらしさがあった。
希少性が、その構造を変えた。
IPv4の希少化は、帳簿を資本のインフラへと変えた。アドレスは資産になった。リース市場が形成された。価値の評価が行われるようになった。帳簿が資本になると、レジストリの裁量は経済的な権力になった。だが、その権力の拡大に説明責任は追いつかなかった。資産価値に比べ、法的責任はごく小さいままだった。執行の裁量は中央に集中したままだった。ガバナンスの文化は正統性の根拠として「コミュニティ」を唱え続けたが、決定的な操作権は集中したままだった。
これは、収奪型への傾斜だ。
それを支えているのは、人々の認識である。
何年もの間、私はネットワーク運営者が、RIRを政府であるかのように――主権者であるかのように、誰も手出しできない王であるかのように――語るのを聞いてきた。私は、単純な法的事実を繰り返し強調した。RIRは国内法の下で活動する、小規模な民間の非営利法人だ。主権者ではない。政府ではない。規制当局ではない。客観的な指標の多くで見ると、その中にはLARUSより小さな組織もある。
だが、語られる物語が彼らを膨らませた。
メディアやコミュニティの想像の中で、彼らは準主権的な何かへと格上げされた。不可避で、無敵で、異議申し立ての及ばない存在だ。収奪的なシステムは、その認識に依存する。試される前は、誰にも止められないように見える。権威主義体制のように、自分たちの存在は不可避だという印象を与える。依存しているのは武力ではなく、信じ込ませることなのだ。
ひとたび異議を突きつけられ、しかも異議を唱えた者が生き残れば、その幻想にはひびが入る。
人々は、反対は可能なのだと気づく。権威は争える。王には軍隊がない。
反応は予測できる。
法的な現実を受け入れる代わりに、彼らは物語による防衛を強める。裁判所の判決がレジストリによる地位の濫用を認定している場合でさえ、私を「濫訴的」だと非難する。司法の審査を受け入れるどころか、NROはモーリシャス政府に接触し、免責に類する保護を求めるところまで行った。この動きは、彼らの本質を明らかにしている。コミュニティに根ざし、ボトムアップで、主権を持たないと称する組織が、すでに自らを主権者だと思い始めているのでなければ、政府に主権者のような免責を求めることはない。
矛盾は鮮明だ。
彼らは、自分たちはコミュニティの合意形成を促進するだけの存在だと主張する。だが、裁判で異議を突きつけられると、通常の法人としての責任を超えた保護を求める。主権者の特権を夢見て、その実現を政府に請願する。悲劇的であると同時に、滑稽でもある。
本当にコミュニティに根ざした調整役なら、ほかの民間主体と同じように、法的責任を問われる可能性を受け入れるはずだ。免責を求めることは、その逆を証明する。彼らは自分たちを、通常の法を超えた何かだと見ている。その願望だけで、この神話の正体は露わになる。
法廷での敗北や構造的な弱さに直面すると、彼らはそれを、誰も手出しできないという物語と両立させられない。そこで、外部の要因による説明を膨らませる。私が並外れた力を持っているとほのめかす。より大きな地政学的勢力を代表していると示唆する。私を、より大きな何かの代理人として描く。私が単に、法と経済の現実の中で活動する一個人でしかないなら、彼らの敗北は屈辱的なものになるからだ。
無敵というイメージを守るために、相手を大きく見せなければならない。
私がただの民間人なら、彼らの権威は崩れる。私の背後に帝国があるなら、彼らの物語は生き残る。これは、主権があるかのような認識を心理的に守ろうとする行為だ。
だが、彼らには軍隊がない。実力の独占もない。主権者としての権限もない。
彼らが使える唯一の通貨は、自発的な協力と、中立だという認識だ。メディアへ、政府へ、免責の要請へと対抗措置を強めるたびに、その通貨を使い減らす。主権を持たないシステムでは、対抗措置を強めても、異議を唱える者を排除できない。その者の存在意義を裏づけることしかできない。沈黙は、異議を唱える者を小さな存在にとどめる。名指しすることが、その存在を作り出す。
彼らの恐怖が、彼らの恐れるものを生み出す。
実際の主権的な権力を後ろ盾に持つ収奪的な制度でさえ、長期にわたって存続するのは難しい。強制には費用がかかり、正統性は衰え、資本と人材は流出し、矛盾が積み重なって、やがて亀裂が生じる。軍隊と課税権を持つ収奪的なシステムにも構造的な限界があるのなら、主権的な権力を持たず、権力があるという認識だけで動くRIR型の収奪への傾斜は、本質的にもっと弱い。主権者としての能力ではなく、人々の認識を頼りに収奪的な制度を運営しようとするのは、みじめで愚かだ。越権を持続させるための機構もないまま、越権しているのである。
この対立は、歴史的な必然でもある。
二次市場が形成されると、重心は管理機構による割り振りから、資本の活用へと移る。二次市場の最大手は、大規模にアドレスを供給し始め、資産の流通からレジストリ自身より多くの収益を得て、誰がどの条件でIPv4を手にするかについて、より大きな実務上の影響力を蓄積する。その段階で、レジストリの敵意は個人同士の衝突ではなくなる。市場構造によって相対的な力関係が逆転するのを目の当たりにした管理組織の、自然な防衛反応なのだ。世界最大のIPv4二次市場企業であるLARUSは、まさにその緊張が集中する地点にいる。市場で支配的な供給者は、必然的にレジストリにとって最大の脅威となる。
この変化の構造的な原因は、私ではない。
せいぜい私は、インセンティブの設計にすでに埋め込まれていた脆さを露呈させた、圧力の集中点にすぎない。集中した裁量に、最小限の説明責任と、内部で確率的に生じる権限の濫用が加われば、いずれ破綻することは避けられない。
IPv4の希少性が、帳簿を資本へと変えた。資本は予測可能性を求める。予測可能性は、権力への制約を求める。権力が政治化し、裁量に左右されるようになれば、市場は適応する。運営者はリスクに備える。依存先は分散していく。
分散化は反乱ではない。
均衡なのだ。