主権という誤謬について

ひとつの大陸が、調整のための記録に主権を持つことはできるのか?

互いに直接つながる別々の台の上で、3人の記録係が、内容の一致した青い台帳を管理している様子を描いた概念図。

共有する記録について合意することは、主権的な権威を生み出すことではない。Lu Hengは、いかなる単一の法域にも取り込まれない調整のあり方を主張する。

主権は、感情でも、標語でも、物語でもない。構造上の性質である。執行能力と最終的な権限が存在しないところに、主権は存在しない。それ以外は、すべて看板にすぎない。

「アフリカのデジタル主権」は、この段階ですでに成り立たない。大陸は主権者ではない。法律も政治も利害も相容れない54の独立国家が、一つの権威を構成するわけではない。統一された法域も、共通の執行体制も、正当な最終決定者も存在しない。主権として提示されているものは、実際には主権を擬似的に作り出そうとする試みだ。

この矛盾は、登録層で明らかになる。IPアドレスとASNは抽象的な記号ではない。参加者がその記録を自発的に承認するからこそ存在する、調整のための記録である。インターネットが機能するのは、誰かが支配を強制できるからではなく、誰もそうする必要がないからだ。登録権限を政治的に「所有」できるものとして捉えた時点で、すでにシステムを誤解している。

地域レジストリは、この誤解を増幅する。レジストリが置かれていない国は、距離があることを主権の喪失と取り違える。レジストリが置かれている国は、近くにあることを支配できることと取り違える。どちらも間違っている。所在国は必然的に、法的・政治的な隘路となり、国境を越えて波及する紛争や圧力を受け止めることになる。所在国ではない国々は、自らが影響を及ぼせない決定にさらされ続ける。どちらの場合も、レジストリは中立的な調整の仕組みではなくなり、代理戦の舞台となる。

より根深い失敗は、考え方そのものにある。中央集権的なレジストリは、支配が可能だという思い込みを誘い、その思い込みが、支配を実際に行使しようとする動きを引き起こす。ひとたびその動きが始まれば、インターネットの自発性は壊れる。訴訟、制裁、凍結、ガバナンスの麻痺が続く。それらは権限の乱用としてではなく、協力に基づくシステムを統治できるかのように装うことの、論理的な帰結として生じるのだ。

だからこそ、権限の置き場所を変えたり、「ガバナンスを修正」したりしても、この問題は解決できない。登録層そのものを、政治の引力から切り離さなければならない。インターネットを機能させてきた本来の条件――強制なき調整、法域に依存しない相互承認、支配者なき秩序――を保てるのは、完全な分散型台帳だけである。

デジタル主権は、支配を主張することで取り戻せるものではない。そもそも支配が存在すべきだという幻想を取り除くことで、取り戻される。